『かみきり虫』 雨がざあざあとアスファルトをたたく朝だった。 学校に遅刻するかもしれないな、と思いながら紺色のかさを開くと、 中から、ぴょん、と何か緑色のものが飛び出してきた。 それは、かみきり虫だった。長い触角を優雅に交錯させては開き、 雨の当たらない軒下から、思慮深げに私のことを見つめていた。 私は不愉快に思いながら、かさをちらりと見た。 思った通り、お気に入りのかさには、てっぺん近くでそら豆ほどの穴が開いていた。 顔をしかめた私に対して、かみきり虫が笑い声をたてた。 (かみきり虫の笑い声というものを、私ははじめて聞いた) 私はむっとしながらかみきり虫に聞いた。 「どうして私のかさを食べちゃったの」 かみきり虫は、肩をすくめるように羽を上下させながら、答えた。 「だって、そうしなければいけない気がしたのだもの」 そうか。私は妙に納得してしまった。 かみきり虫の世界も、きっとむつかしいのだろう。こいつだって、大変なのだ。 私はかさをたたむと、柄の部分を自転車のかごにひっかけた。 そして、かさをささずに、とぼとぼと学校へ向かって歩き始めた。 ぴょん、ぴょん、とかみきり虫がうしろからついてくる。 「どうしてかさをささないんだい?」 かみきり虫の声は、なんだか不満げだ。 「だって、どっか一箇所から雨が降りこむなんて嫌だもの」 「どうして?あれは僕の芸術なのに。 僕がおこした変化が、変化を呼び、それがまた変化を呼ぶ。 これでも僕は、アーティストなのさ」 「迷惑な芸術。私は全身からからか、全身びしょぬれがいいの」 「白か黒か、なんて。世の中それじゃ通用しないだろ。全部灰色さ」 「そうよ、だから、こういう些細なことは、はっきりしていてほしいの。 雨が灰色で酸性雨だろうと、別に気にしないけれど、 穴の開いたかさのせいで、雨が私を灰色にするなんて嫌。 いっそのこと、黒か白よ。男ならそうよ。」 「おいおい、君は女の子だろう?」 かみきり虫があきれ顔で言った。私は無視して、学校まで急ぎ始めた。 かみきり虫も、同じスピードでついてきた。 学校につくまでに、ずいぶん濡れてしまっていた。 下駄箱の前で、私は鞄からタオルを出して、紺色の制服と髪を拭いた。 辺りには誰もいない。完全に遅刻だ。 驚いたことに、かみきり虫は、学校の中にまで入ってきた。 馬鹿馬鹿しく思いながらも、タオルを使いたいかどうか聞くと、 「結構だよ」と皮肉な答えが返ってきた。 なるほど、羽を使って全身を乾かせるなんて、便利なんだな。 ところが、かみきり虫は意外な言葉を付け加えた。 「雨を避けてきたからね」 私は教室の方へ向いていた足を止め、かみきり虫をふりむいた。 「そんなことができるの?」 かみきり虫は、誇らしげに「神様にちょっとお願いするのさ」と言った。 本気か冗談かわからなかった。 教室につくと、朝読書の真っ最中だった。 朝読書というのは、毎朝10分間の読書時間のことだ。 静かに後ろのドアから入ろうとしたのに、中が静かすぎたせいで、ほぼ全員の注目をあびた。 どうか、かみきり虫に尾行されていることがばれませんように、と私は切に祈った。 席にカバンをおいて、教卓で宮沢賢治を読んでいる担任に「遅刻しました」と言った。 担任のおばさん先生は、「どうしたの?」と興味深そうな顔で聞いてきた。 私はその、生徒に好かれる人への関心の向け方、のようなものにムカついて、 ただ静かに「雨のせいです」と言った。 雨が怒って、雨脚が強まったような気がした。 真剣な表情の私に、おばさんも真剣な顔で「そう、悪い雨ね」と言った。 同情、という言葉が浮かんで、はじけとぶ。私は少しイライラした。 席へ戻ると、机の奥の方で、かみきり虫のやらしい嘲笑が聞こえた。 教科書を押し込んで、潰してやろうかとも思ったが、さすがにかわいそうなのでやめた。 読む本が教科書しかなかったので、何も読まずに頬杖をついて、教室を見回していると、 悪友のひとり、Mがこちらを見ていた。私と目があうと、Mはニヤリと笑った。 私もニヤリと笑った。私は、色んな人のニヤリ、でこの世界が埋まってしまえばいいのに、と思った。 全人類をあざ笑うような疑心暗鬼のかたまりと、そんな泥の世界への期待のまじった、ニヤリ。 私はそういうニヤリが本当に好きだった。強さ、それだけの笑顔だ。 一時間目は、英語の小テストだった。私はいつだって塾の宿題に追い回されていて、 学校の小テストの勉強なんてろくにしていない。今日のやる気は、いつも通りゼロだ。 頬杖をついて、頭の中ででたらめな歌を歌っていると、楽しいことを思いついた。 「ねぇ、かみきり」 私は小声で、机の中のかみきり虫に話しかける。 「何?」 「おなかすいてない?」 「わりと」 私は机の上の小テストのプリントを、素早く机の中へ押し込んだ。 耳をすますと、奇妙な音が聞こえる。かみきり虫が、私の英語のテストを食べている音。 なんだか心地よくて、私は目を閉じた。 教室を巡回していた英語の先生が、目ざとく私のサボリを見つけて、こちらにやってきた。 40代前半ほどのこの女の先生は、評判が悪い。けれど、私は別に嫌いじゃなかった。 「スガワさん」 「はい」 私の机の上には、筆箱すらでていない。 休み時間には出していたのに、何故か始業チャイムと同時に仕舞ってしまった。 「テストどうしたんですか」 「すみません、なくしました」 「どうやったらなくせるんですか」 「かみきり虫にあげちゃいました」 「廊下に立っていなさい」 声をたてて笑ったクラスメイトはいなかった。 にやにやしてるやつは何人かいたけれど、みんなわりと真面目に、テストを受けている。 私はおとなしく立ち上がり、おとなしく歩き、おとなしく教室を出て、おとなしく廊下に立った。 かみきり虫もおとなしく食事を中断し、私についてきた。 教室のドアをしめ、辺りにだれもいないことを確認すると、私はかみきり虫に聞いた。 「おいしかった?」 「あんなまずいもん食べたことないよ」 「ですよね」 教室と廊下を隔てる壁によりかかりながら、窓の外の山々を眺める。 山々に囲まれた小さな町の、小さな中学校。 近くの町工場から白い煙が立ちのぼっているのが見えた。 いつのまにか、雨が止んでいる。 「ねぇ」 かみきり虫が私にささやきかけた。 その声が酷く弱弱しく思えた私は、しゃがみこんでかみきり虫を見つめた。 かみきり虫は、長い触角を、空気の流れに震わせている。 「どうしたの?」 「深沢って場所、知っているかい?」 「知ってるよ、この辺りで育った子どもの中で、あの場所を知らない子はいないよ」 深沢とは、この町に住む子どもたちの遊び場になっている原っぱのことだ。 町に繋がる道以外の方面を、山々に囲まれている荒れ野。 あまり手入れのされていない田んぼ、沼、小川、小高い丘などがあり、 中にはターザンロープが結ばれている木なんかもあって、一日中遊んでいてもあきない自然の遊び場だ。 近年では、乗り捨てられた車や自転車、冷蔵庫なんかもあって、蛇も多くなり、少し危ない場所になりつつあるのだけれど。 「僕はそこで生まれたんだ」 「そうなんだ」 私は妙に親近感を覚える。 「連れてってくれないかな」 私は目をぱちくりとさせた。 もしかしたら、このかみきり虫は寿命が近いのではないだろうか、 そんなことを思った。私は小さな頃、よく虫を捕まえて籠の中へ入れた。 きゅうりなどと一緒に入れておけば、大丈夫だろうと思って。 けれど、どんなに目をかけていても、籠に入れられた虫は、すぐ死んでしまうのだった。 今の私は、小さい頃無邪気に殺してしまった、虫たちの上に生きている。 「いいよ」 優しい声で私は言った。両手を丸くして、弱ったかみきり虫を包み込む。 いつでも薄暗い学校の廊下に、ちらつく午前中の光、それらが作り出す影。 1階の廊下、給食室わきの窓から私は脱走した。 誰にも見つからなかったことにほっとしながら、 生きているかな、大丈夫かな、と手の中を見ると、かみきり虫はちゃんと息をしていた。 しっかりとした呼吸だった。私はそれを、肌に感じた。 裏門から出たところの路地裏の道。私は深沢へ行くのに、一番近い道を考える。 地面に薄っすらと出来た水溜りは、もう乾きはじめていた。 お日様がさんさんと照っていて、暖かくさえある。私は走り出した。 深沢へ入る道すがら、かみきり虫が変なことを言い出した。 「そこの、車のガレージのところに、草が生えてるだろう」 見ると、手入れの行き届いていないガレージに、雑草が茫々と生えていた。 持ち主は出かけているようで、車はない。 「それをむしって、手のひらいっぱいにとっておいてくれないかな。 僕は、ここからは歩くから」 私は無言で、かみきり虫を地面へおろすと、言われたとおりにその草をむしった。 だいぶむしりとったところで、かみきり虫は歩き出した。 歩く、というよりは跳ねる、といった方が正しいのだけれど。 「ねぇ、この草、何にするの」 私は手のひらにむしった草をぎゅっと握り締めながら、聞いた。 かみきり虫は、答えない。 「ねぇったら」 かみきり虫は、答えない。 古びた案内板の前で、かみきり虫は歩みを止めた。 むこうが何々山で、あっちが何々山。案内板にはそんなことが書いてある。 案内板の辺りは、土の種類のせいか植物は生えておらず、地面がむきだしになっている。 「ここでいいや」 かみきり虫は妥協する。何に妥協しているのか、私にはよくわからない。 「僕はもうすぐ死ぬんだ」 「そう」 そんな気がしていたよ。私は心の中でぽつりとつぶやいた。 途端に、なんだか悲しくなる。 けれどその悲しい気持ちも、長くは続かなかった。 「だから燃やして」 かみきり虫のこの言葉。私はぎょっとした。 しゃがみこみ、まじまじとかみきり虫を見つめる。 「何言ってるの」 もうすぐ死ぬって決まりきっているのに、どうして今、自殺する必要なんかあるの。 「僕を焼く火が、そのまま僕の迎え火になるんだよ。素敵なことだとは思わない?」 「思わない」 私は断言した。 「僕は普通に死にたくないんだ」 かみきり虫、かみきり虫、 お前はどうしてそうなの。 「君のスカートのポケットに入ってる、青いライターで僕を焼いて」 かみきり虫は、正気ではないにしろ、本気だ。 「わかった」 私はうなだれる。 「僕を焼いたら、そのまま逃げていいよ。 僕が迎えられるまで、待たなくてもいいんだ」 「わかった」 私は、うなだれたまま、ゆっくりと頷いた。 かみきり虫の上に、ぱらぱらと、草を重ねる。 小さなかみきり虫は、すぐに埋もれてしまう。 ふと、辺りを見回す。おひさまの光にきらめく露。辺りにあるのは、濡れた草ばかり。 なるほど、かみきり虫はもうずっと前から、死ぬことしか考えていなかったのか。 私はそれに気づいて、なんだか泣きそうになる。 かみきり虫のくせに。 手の平についた細かい草まで、ていねいにかみきり虫にかぶせると小さな山ができた。 私は自分の髪を数本ちぎって、山の上にぱらぱらと落とす。 ライターの火をつけて、じっとその火を見つめる。 午前のまぶしい光の中、ゆらゆら揺れる小さな炎。 私は、草にライターを近づけた。なかなかつかない。 しばらくすると、それは突然燃え出した。 ぱちぱち、ぱちぱちと小さな音の中、 「さよなら、さよなら」 と、かみきり虫の声が聞こえた気がした。 心なしか、悲鳴に近い、その声。 無邪気に殺してしまうことと、知っていて殺してしまうこととは違う。 けれど余計に残酷なのは、前者だ。 小さな草の山から、細い煙が立ちのぼる。 それは、ゆらゆらと立ちのぼっては、消え、立ちのぼっては、消えていく。 空へとのぼっていく煙は、雨と一緒に帰ってくるのだと気づいた。 なにもかもが燃えてしまうと、 焦げくさい匂いの中、私は立ち上がって空を見上げる。 今日はきっと、夕立になる。 もどる 2007.2.3 公開 2007 Copyright(C)ritu,all rights reserved.