『再生ボタン』


 ミチコの部屋にあるMDCDプレーヤーは、とても美しい浅葱色をしている。
羨ましい程完璧な色をしているので、私は彼女の部屋に遊びに行くたびに、
そのMDCDプレーヤーを褒めていた。
 ミチコは閑静な住宅街の一角にポツンと立つ、ボロアパートの管理人の孫で、
彼女自身そのボロアパートに住んでいた。金属で出来た階段は錆び付いていて、
人が通るたびにギシギシと音を立てたし、「この住宅街の風景に合わない」と、
苦情はしょっちゅう来ていたようだったけれど、私はそのアパートが好きだったし、
彼女もまた満足しているようだった。
少なくとも、私は彼女が自分の住まいについて文句を言ったところを見たことが無かった。
 そんな彼女だから、自分の部屋がどうだろうと大して気にはしていないようだった。
日常雑貨も、置物も、そこら辺で普通に見かける安物で、何時も汚らしかった。
 浅葱色のMDCDプレーヤーは、あの部屋に似つかわしくない、本当に心惹かれる一品だった。
あのMDCDプレーヤーがミチコの部屋に置かれているのを見つけた途端、
彼女の汚らしく見える部屋が別物のように美しく見えた。彼女の運命が変わったようにすら思えた。
それくらいの力を持ったプレーヤーだった。誇張ではなく、本当に。
 彼女自身も、そのプレーヤーをとても大事にしていた。

 ミチコと私は中学高校と親友だったが、大学が分かれたために、しばらく顔を合わせる事がなかった。
私は大学1年の年、目まぐるしく忙しい日々が続いていた。ミチコの浅葱色のMDCDプレーヤーの事など、
私はすっかり、綺麗さっぱり忘れかけていた。
 思い出したのは、2年に進級してしばらく経ったある日、街中でミチコにばったり出くわした時のことだ。
私達は突然の再会に大喜びして、近くのハンバーガーショップで昼食を共にすることにした。
私はアイスミルクティーを、彼女はホットコーヒーを啜りながら、他愛もない話で私達は何度も笑った。
高校生に舞い戻ったような気分だった。

 ふと、話が途切れ、私達は黙りこくった。何の事はなく、ただ話がつきただけだったが、
それだけで私はその場に居づらくなり、そろそろ帰ろうかなと思い始めていた。
 ミチコは窓越しに人の多い通りをぼんやりと見つめていた。
何処かつかみどころの無い物体のように見える彼女が、なんとなく私は恐かった。
 帰ると告げようとした瞬間、ミチコがゆっくりと話を切り出した。
「あたしの部屋にあった浅葱色のMDCDプレーヤーを覚えている?」
 私は条件反射的に答える。
「あぁ、うん。覚えてるよ。凄く綺麗な色してたよね」
 私は軽く微笑みを装った。1年の間に、私は上手く微笑みを装えるようになっていた。
でも、彼女は笑わなかった。じっと吸い込まれそうな瞳で私を見つめ、
壊れた機械のような声で、言葉を紡ぎつづけた。
「あのMDCDプレーヤーね、売ろうかと考えてるの」
「どうして?」
 私は驚いた。あんなに大事にしていたのに。
「だって、すっごく気味が悪いの。
この前ね、久々にクラシックが聞きたくなって、
MDプレーヤーじゃなくてCDプレーヤーの方を使ったの。
あたし、クラシックはCDからMDに落してなくて。
そしたら、CDプレーヤーの方に埃が溜まってて、吃驚しちゃったわけ。
そんなに長い間、私MDしか聞いてなかったかなって」
 私はちょっと笑った。ミチコならありえるな、と思ったからだ。
でも、彼女は眉間にしわを寄せて言った。
「笑い事じゃないのよ。
ほら、あのMDCDプレーヤー、前にパタンってCD入れるのがでてくるタイプでしょ?
PCみたいに縦だの横だのにスッて入れるんじゃなくて」
「スッて入れるって表現おかしくない?」
「どうだっていいの、そんなの。とりあえず前にパタンってでてくるのって、
読み取る個所が手で触れられるじゃない、そうじゃないのと違って」
 私はアイスティーの最後の一滴をストローを使わずに啜った。
店内に客が増えてきたように感じられる。
店員の「いらっしゃいませー」という声が盛んになってきた。
そろそろ12時だろうか。

「それで、埃がそのデータの読み取り個所についてたの。
あぁ、使い物にならないかもなってあたし半分諦めたんだけど、
それでも意地はって、掃除はじめたのね」
「珍しいね」
 私は笑った。ミチコがちょっとだけ拗ねた声を出す。
「余計なお世話。で、結構な量ついてたわけ。
あれ、なんか可笑しいなとあたし思ったんだけど、
ティッシュで拭きつづけたのね。
で、最終的に綺麗なまでにぴっかぴかになって、ちょっと嬉しくて、
ついつい素手で読み取り個所に触れちゃったわけ」
 彼女はホットコーヒーを小さく啜って、私に聞いた。
「どうなったと思う?」
「変な音でも聞こえてきたの?」
 私は笑った。
でも、ミチコは大真面目に言った。
「変どころじゃなかったわよ」

「最初はね、MDの方が間違って再生されたのかな、って思ったの。
ザーって機械音が聞こえてて。でもだんだん、足音みたいなのが聞こえてね、
コツコツ、コツコツって。あたし恐くなってきて、手を離そうとしたの。
なんかCDプレーヤーのパタンってでてきたやつがパタンって閉まって、
ほら、あたしの手に噛み付いた状態みたいになったらやだなって思って。
でもね、それが離れないのよ、くっついちゃって。
噛み付いた状態ではなかったけど、気分がいいものじゃないわよ。
あたし頑張ったんだけど、離れなくて離れなくて。
しかも部屋ね、その日の前の日に電球が切れちゃってて、薄暗かったわけ。
気味が悪いったらありゃしなくって。
そのうちにドアが開くような音がして、声が聞こえてきたわけ。
小さな声だけど、凄くリアルでね。実際に話し掛けられてる気になるの。
『可愛い』って男の人が言ってるの。泣いてるのよ、その人。
あまりの可愛さに泣くことなんてあたし経験してないから、すっごく羨ましかった。
そのうちに、またザーって機械音になって、今度は子供の声がたくさん聞こえるの。
しかもその声一つ一つに、覚えがあるわけ。こうちゃん、けいちゃん、ゆりちゃん…
確か幼稚園の友達よ。もうあたしパニック状態だったわね。
それで、わかったの。さっきの声はパパ。
このMDCDプレーヤー、あたしの人生再生してるんだって」

「凄いね」
 突飛な作り話を、いかにも本当にあった事のように話す、
大真面目な彼女の一生懸命さがとても可笑しかった。
昔も彼女はよく私に、面白い話を聞かせてくれたのだ。私は続きを促した。

「それから、小学校、中学校って進んでいったわ。もっちろんサナも出てきたわよ。
あたし達大喧嘩したこともあったのね、中学3年の時に。
それで、高校、大学…ときて、昨日の事が再生された後、なんかザーって機械音が大きくなったの。
あたりまえよね、まだ経験してない未来なんだから。
でもね、なんか機械音の中から違う音が聞こえてくるの、
ほんっとわずかな音なんだけど、だんだん聞こえるようになってくるの。
もうあたしパニック通り越して、興味津々で聞き入ってたわけ。
カンカンカンカン…最初に、踏み切りの音が聞こえてね。
なんか次に、電車の来る音がするの、ガタンゴトーンガタンゴトーンってね。
凄く、凄くリアルな音。頭で思い描けるくらいに。
『5番ホームに、電車が参ります、危ないですので…』みたいなアナウンスとか、
人々の話し声とか聞こえるの。私の何時もの朝どおりに。
でもね、可笑しいの。変な…なんていうのかな、なんとも表せない音としか言い様がないんだけど、
そんな音が聞こえたと思ったら、カチャって。いきなり再生が止まったわけ。
もちろんあたし不満だったわよ。いきなり止まるなんて不公平じゃないの。
もっと先の未来も見たかったの、どんな老後を送るのかしら、とかね」
 ミチコはやっとけらけらと笑った。
「でも後で冷静になって考えたら、なんか現実的じゃ無いわよね、
白昼夢だったのかしらねぇ。少し自分が恐くなっちゃった」
 私も笑う。そして彼女を励ました。
「大丈夫よ、夢って何でもありだし。
ところで、読み取り個所から手は解放されたの?」
「とりあえず噛み付かれる前に脱出成功したわよ」
 彼女は眩しいくらいの笑顔で笑っていた。


 数日後にミチコが電車に轢かれて死んだと知った後、私はお線香をあげるために
あのアパートの管理人である彼女の祖父のもとを訪れた。
「あの子の部屋、見ていかれますか」
 迷った末に、私は彼女の部屋を訪れた。お祖父さんが部屋を出て行ってしまうと、
私は一人、主人のいない部屋に残された。
 昔のままの薄汚い部屋を見回しているうちに、あの浅葱色のMDCDプレーヤーを見つけた。
床にぽつんと置き去りにされたMDCDプレーヤー。
そっと触れると、最後に見た彼女の笑顔がありありと思い出された。

 あの時、彼女が話してくれた話は実話なのかもしれない……
彼女が聞いた最後の音は、たぶん自分が轢かれた音だったのだ。
聞いたことも考えたこともない音だったのだ。表現のしようが無い音だったのだ。
 彼女に老後などなかった。あの音のその先の未来なんて無かった。
だから彼女はその先を聞くことができなかった。
 ミチコは、再生の突然の停止を不公平だと言っていたが、
もしかしたら彼女は、自分の未来があの時見えてしまっていたのかもしれない。
自分の人生が、突然止まることを予測していたのかもしれない。
だからあんなに、彼女はつかみどころのない物体のように見えたのかもしれない。
苦しかったのかもしれない。恐かったのかもしれない。
でもそれを、それら全てを、私に隠していたのかもしれない。

 今となっては、憶測でしかなかった。

 私に残された道は、ただ一つだった。
あの時、彼女の話を作り話として完全に否定した私に残された道は、
私が彼女を救えたか否かを確かめることだった。
 私は浅葱色のMDCDプレーヤーの電源を入れ、取り出しボタンを押して、
CDがセットできる状態にした。
そして、その中に手を入れて、そっと読み取り個所に触れた。



ザー……

 しばらくして機械音がスピーカーから流れてきた。
何処か遠い所で、再生ボタンが押されたようだ。
浅葱色のMDCDプレーヤーは、ミチコだけでなく、私の運命も変えてしまうらしい。

 私は目を閉じた。
 そして……。


 …………。



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2007.1.28 加筆・修正後、再公開
2003 7月  日記にて公開

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